オーストラリアの歴史年表

先住民族アボリジニーから初めて入植してきたイギリス人も多く住み、または他国からの移住民の数も非常に多いオーストラリア。 オーストラリアの歴史を見ると多民族国家ゆえに偏見や差別を生んだ時代もありましたが、 今現在は多文化国家として世界に数少ない国としてとても魅力的な国に変換しています。
シドニーの歴史は1770年のクック船長がシドニーに降り立った時から始まったといわれています。 つまり、その後数百年あまりで現在のシドニーのようにめまぐるしい発展を遂げたのはただただ驚きです。 その後はシドニーはイギリスからの流刑人が送られる『囚人の街』として発展してきました。 罪人の町として暗いイメージのあったシドニーですが、金がみつかるゴールドラッシュとして世界中から人々を集めるようになり、商業としても次第に発展していきます。 1901年にオーストラリアとして国が確立してからは、白豪主義の廃止や世界大戦を駆け抜け、現在のように多民族国家として発展していったのでした。 日本からは1975年にワーキングホリデー制度が始まってから多くの人が訪れるようになりました。

オーストラリアは比較的歴史の浅い国といえますが、その内容は非常に激動と言えるでしょう。 下記の年表にまとめていますので参考にしてください。

6〜7万年前
アボリジニの祖先がオーストラリア大陸に渡る。
アボリジニがオーストラリアに移り住んだのは第4氷河期のころといわれています。 アジア地域にすんでいたアボリジニがはるかな距離を歩いてオーストラリア地域にわたってきました。
アボリジニはヨーロッパ人が大陸を発見するまで、大陸全土にて狩猟や採集をすることで生活を営んできました。

1606年
ヤンスがヨーク岬に到達する。
15世紀初めから航海を重ねていたオランダのヤンスがヨーク岬の西海岸に到達します。

大陸発見。
中世末期のヨーロッパではオーストラリア大陸は想像以上の大陸だった。 ヨーロッパ人は北半球にこれだけの大陸があるのっだから、南にも大きな大陸があるに違いないと考えていました。 そんな夢の大陸を探す一途な思いから、彼らは航海を繰り返しました。

1770年
ジェームズ・クックがシドニーに上陸。
ジェームズ・クック(キャプテン・クック)がシドニー郊外ボタニー湾に上陸し、ニュー・サウス・ウエールズと命名。

1788年
イギリスの入植が始まる。
アメリカの独立後、罪人の流刑地を探していたイギリスは、1787年に最初の流刑者をオーストラリアに送ります。 次の年の1788年1月26日、初代総督アーサー・フィリップら約1400〜1500人(うち半数以上が囚人)がシドニー湾に上陸。

植民地開拓
流刑者のための植民地として、歴史の第一歩を踏み出したオーストラリア。生活に必需な衣類や食料、住居などを確保できない 状況下で、1829年にはパースなどの西オーストラリアで、1836年にはアデレードにて本格的な入植が進められていきます。

1851年
ゴールドラッシュが始まる。
エドワード・ハーグレイブスという炭鉱社がニュー・サウス・ウエールズにて金を発見したことがきっかけとなりました。

ゴールドラッシュに夢を抱き、世界中の人々がニュー・サウス・ウエールズに集まります。 ゴールドラッシュをきっかけにオーストラリアでは人口が飛躍的に増加します。同時に、金塊をめぐる争いや強奪が頻繁に発生するようになり、 治安と経済に大きな影響を与えました。

1868年
流刑者の受け入れが終了。
1788年から続いた約16万人にも上ったオーストラリアでの流刑者の受け入れがついに終了します。

1901年
オーストラリア連邦成立。
10年以上の議論の末、イギリスの議会が6つの植民地を州とするオーストラリア連邦の成立を承認します。

各植民地が政治的、経済的に安定すると、オーストラリアが太平洋の覇権を握るべきという政治家が現れる。 彼らの基本理念には、白人による国家の建設という『白豪主義』の考えが盛り込まれていました。

1914年
第一次世界大戦勃発。
第一次世界大戦に参入し、オーストラリアは日本と同盟国に。 40万人を超える兵士が戦地に行き、6万人という大きな犠牲を払います。

1941年
第二次世界大戦勃発。
イギリスの対独宣戦布告を機に、オーストラリアは対独戦へ参加。 1941年、真珠湾へ攻撃した日本にアメリカとイギリスが宣戦布告、1日遅れてオーストラリアも日本に宣戦布告します。 大戦中には日本軍の南進作戦によりダーウィンが連続爆撃を受けたり、シドニー湾内で海軍が撃沈されるなど、 オーストラリア国土が戦火に巻き込まれます。

1957年
日豪通商協定締結。
1879年に始まった日豪貿易は、協定の締結を機に大きな転換を迎えます。 羊毛に加えて、石炭など資源の輸出も開始されました。

1972年
白豪主義政策廃止。
オーストラリアへのアジアからの移民が増えたことで、 有色人種への差別や偏見が生まれていました。白豪主義政策はこの年を機に多文化主義に変化していきます。

多文化国家
オーストラリアは、アボリジニの文化とヨーロッパの文化、そしてアジアの文化が融合した多文化社会だ。そこから生まれた芸術や食文化、文学などの潮流には、 世界中から注目されています。

1975年
ワーキングホリデイ制度が始まる。
英国やカナダとワーキングホリデイ制度の協定を結びます。 日本と協定を結んだのは1980年。

1976年
日豪友好協力基本条約締結。
オーストラリアと日本、双方の長期にわたる友好協力関係を保障することを目的に、 日豪友好協力基本条約が結ばれます。

2000年
シドニーオリンピックが開催。
韓国と北朝鮮が統一旗を掲げて参加。 また国連統治したの東ティモールも個人資格で参加するなど、『民族の融和』というテーマを前面に出したすばらしいオリンピック がシドニーにて開催されました。